どんな知覚の傾向があるか、どんな学習能力があるか、メンタルテストなどを通じて個人の傾向を分析することも心理学の一つの分野ではあります。
もともとはこのテーマに挑むつもりはなかったのですが、統計学の回帰分析や相関係数が生まれてきた背景を調べるべくフランシス・ゴルトンを調べていたら、意外にもこのテーマに関わることになりました。
フランシス・ゴルトンという人は、ダーウィンの従兄弟(祖父が同じ母が違う)にあたる人なのですが、ダーウィンの進化論の遺伝的側面を本格的に研究人であると思います。
人間において遺伝がどのように起こっているのか調べるためにゴルトンは、人間のさまざまな部分を数値化して測定できるシステムをかなりの情熱で作り上げます。
そんな関係もあり、副産物として“犬笛”なども発明しています。これは周波数の違う音の知覚を研究している内に生まれたもののようです。
そして多くの人間のさまざまな部分を数値化して測定したデータを当時の数学的な手法を用いて分析する中で、現在の統計学でよく出てくる「回帰分析」や「相関係数」などのベースとなる考えを生み出します。
一方で、この非常に確立した人体測定システムを学んだ人にキャッテルという人がいて、アメリカに持ち帰りこの測定システムとデータから個体差や個人差を研究する心理学を正当な科学的なものとして『サイエンス』誌などで広めて、この分野が確立したようです。
ここでこのテーマに関わることになりました。
それとは別に、興味深いのが、キャッテルにしろダーウィンの進化論がやはり研究のバックボーンにあるという所です。
ダーウィンの進化論は生物学の分類を考えるのに有用という認識が僕の中では強かったのですが、自然は“偶然”によって変化するという側面が多くのクリエイティブなアイディアの源泉になっているという事を気付かされました。
【1章.『人口論』と進化論と優生学】
現在も人口問題を考える際、引き合いに出されることもあるマルサスの『人口論』ですが、ダーウィンにも強く影響を与えています。その『人口論』的世界観から「進化論」的発想を受けてイギリスで生まれたのが、現在では問題点も多いと考えられる「優生学」となります。
ただ、「優生学」は政治的方向は別として、自然科学においては遺伝学の確立に、また統計学の確立に寄与した側面もあるため、少なくともイギリスの「優生学」を歴史として振り返ってみる価値はあるのかもしれません。
■➀ダーウィンの社会科学からの影響■
ダーウィンの「進化論」の着想に影響を与えた著作は以下のものがあると言われています。
➀『地質学原理』チャールズ・ライエル(1797~1875)
5年に及ぶ科学調査の探索に出発した時、その第一巻をダーウィンは携帯しているようです。
ライエルの主張は、地球はとても古いということ、そして、地形は非常に長い時間をかけて少しずつ形成されたものであるということのようです。
この見方を生物の進化に応用したようです。
②『人口論』マルサス
1838年10月(研究を始めて15か月)に読んだようです。人口は幾何学的に増加していくので、種や個体は限られた資源を獲得するために、すぐに競争を始めると考えたようです。
究極的な形(人為的に生産された食料もなければ、出産を抑制するための結婚制限もない)で動植物界全体に応用されたものとして進化論を考えたようです。
ダーウィンは人口(個体数)の増加と食料の限度との間に、「選択」という力学的なプロセスが働き、それが生物の進化を推進するとしたようです。
③アダム・スミス
ダーウィンが進化論をまとめていた頃、アダム・スミスの経済論を研究しているようです。
各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体で適切な利益配分が行われると勧化たようです・
適応とは、意図せず起きるとして取り入れたようです。※13
■②ダーウィンと従兄弟のゴールトンへの影響■
ダーウィンは、個体差の変異が自然環境の中で抵抗や生存の選択を受け(自然選択説)、個体差から変種、変種から種の形成が行われるという進化論を唱えたようです。この進化論は、種の形成の源を個体差に求めるという意味で、個体差の存在意義を強調することになったようです。※17
1859年に従兄弟のダーウィンの『種の起源』に大きな影響を受け、家系ウェジウッド家、ダーウィン家、バトラー家と名門で、名声を得る家族は一般に才能があることを明らかにしようとしたようです。※6
『種の起源』はかれの人生を変えた出来事となり、特に動物の繁殖に関する「家畜化の下での変化」の最初の章に夢中になったようです。※10
それからゴールトンは残りの人生の多くを人類の個体群の多様性とその意味を探求する事に捧げました。またダーウィン自身も『種の起源』でしたそのことを示唆していませんでしたが1871年『人類の進化』(The Descent of Man)において従兄弟の研究を引き合いに出して、そのテーマに戻ってきたようです。※10
具体的な方法論としては、精神的特徴から身長まで、人間の多様性の複数の側面を取り入れた研究プログラムを確立したようです。顔画像から指紋パターンまで、形質の新しい尺度を発明し、それらの尺度を使用して大規模なデータ収集を考案し、最終的に、データを記述して理解するための新しい統計手法を発見する必要性まで向かったようです。※10
■③『人口論』と優生学■
ダーウィンも影響を受けた著作の一つであるマルサスの『人口論』においては、人口が資源の量に対して過剰になると、病気、飢餓、戦争などによって、人口増加は自然に抑制されるというようです。つまり、人間は全員生き残ることはできないということのようです。
ゴルトンは、マルサスの描く暗い世界観を人道的に回避する方法について考察し、その結果考えついたのがユーシェニックス(eu 良い genics 生まれてくる)だったようです。「生存に適していない」(unfit)人間は、生まれてこない方が、その人にとって、はるかに幸せではないか、と考えたようです。排除(ネガティブ)より増やそうというポジティブの方向性だったようです。そのため上流階級同士の結婚を奨励したようです。※8
(※ただ優生学という用語は『人間の才能とその発達の研究』(1883)から登場)
遺伝における「退化の法則」(子世代で散らばりを持っても孫世代で親世代の正規分布に従う)が示すようでに、優れた性質を持つものがたまたま生まれても、放っておけば世代を経る間に失われてしまうと考えました。このことを防ぐために、育種家が家畜や栽培植物の品種改良を行う場合のように、優れた人々がより多くの子孫を残すような手段を施さなければならないと考えたようです。
ゴールトンはその目的のために「優生学」という言葉を発明し、それを「遺伝によって継承される資質を、賢明に相手を選ぶ結婚によって高めるだけでなく、よりよい血統が維持されるようなすべての方法によって改善するための科学」と定義したようです。そのなかで、「劣った」グループや階級を抑圧することは必要ではない、彼らは自然に衰退するからだと述べたようです。※15
【2章.ダーウィンの遺伝論とその研究】
全ての生物は自然選択の中で枝分かれして徐々に変化し進化していったものであるとするダーウィンの進化論が登場した頃、すべての生命現象に通じる最小単位についての説が登場してきました。そしてダーウィンも進化論を最小単位によって説明しようと試みましたが、そこにおいて行き詰ってしまいます。
一方で、マクロ的な形質的な研究によって遺伝の研究が進む可能性も見えてきました。
■➀遺伝を生命の粒子単位で考える流れ■
19世紀後半から1860年代以降、細胞という基本構造が確定されたことと、生命現象の物質的基礎についての研究がしだいに進んだことが理由で、生命の粒子単位についての説(生物体を構成し、生命現象の単位となるもの)が登場してきました。
1862年には、後に学生時代のフロイトが支持する事になるブリュッケ(ドイツの生理学者でウィーンの教授)によって、細胞の微小構成単位についての説において、上記の単位の最初の提唱者とされているようです。※20
そこから、遺伝についての考えも、生命の粒子単位についての説によって説明されるようになったようです。
また、社会進化論を唱えたハーバート・スペンサーも1864年に、生理的単位(Physiological unit)なる生命単位を提唱したようです。これは分子の複雑な複合体で、それぞれの種の特徴をあらわすものとなり、また個々の性質を発現させると考えたようです。生理的単位は固定不動のものではなくて、外からの影響を受けて分子の組合せに変化を生じうるというもののようです。獲得形質遺伝の論者であり、その考えを生理的単位で基礎づけようとしたようです。※20
エンドウマメの遺伝の研究で有名なメンデルも「要素」という考えで遺伝を論じようとしたようで、その「要素」は上記の生命の粒子的単位の流れにあたるようです。ただしメンデルは実験の結果の直接的な説明の仮説的概念であったようです。※20
■②ダーウィンの遺伝論■
ダーウィンは遺伝の現象のためにパンゲネシヌ(pangenesis)説を立てたようです。
1868年に『家畜と栽培植物の変異』の第27章で「暫定的な仮説」としておき、1869年に第5版『種の起源』で短い文章で挿入しているようです(ただし1872年第6版でカットしているようです)。
パンゲネシス説とは体の各組織の細胞は遺伝され発生を方向付けるジェミュール(gemmule)という微小で不可視の粒子のはたらきで成り立ち、また細胞自身が固有のジュミュールを放出すると考えたようです。ジュミュールは動物体では血管にはいってからだを自由にまわり、固有の栄養によって増殖し、生殖器官に集積するようです。新たな条件下で変化することが可能であり、獲得形質の遺伝はそれによるようです。雑種のモザイク的性質は両親からのジェミエールの混合が原因であると考えたようです。先祖返りは休眠していたジュミュールの賦治ということで説明されると考えたようです。※20
■③ゴルトンの遺伝の研究方法■
ダーウィンの従兄弟のゴルトンもダーウィンの『種の起源』に触発を受けて、遺伝のメカニズムの研究に打ち込むようになったようです。
特に、1865年以降は、主要な関心は(おそらく気象学などから)遺伝学に向けられたようです。進化は親の形質が子に引き継がれる遺伝のメカニズムによって可能になるのであるから、進化の法則を明らかにするには遺伝のメカニズムを知らなければならないと考えたようです。※13
ダーウィンの「パンゲネシス」説も検討し、ゴルトンは1874年にウサギの異なる品種間で輸血を行い、パンゲネシスを実験的に証明しようしましたが、結果は否定的だったようです。※20
一方でゴルトンは、遺伝のメカニズムを様々な家系を調べる事によって見出そうとしていました。
1864年にイギリスの上流家庭に関する一連の研究を行っているようです。このときはゴルトンもスペンサー同様下層への支援に否定的だったようです(wwwl.s-cat.ne.jp)。
1869年『遺伝的天才(Hereditary Genius)』(『遺伝的天才その法則及びその帰結』)を出版。遺伝を中心にし始めていた1865年には発表し始めていたものであるようです。※18
この書物において、一般の人士の4000人につき一人しか見られないような、優秀な人の415名並びに其の肉体関係者977名を選び出して、其の遺伝関係を調べたようです。知名の人の子は普通一般の人の子に比して、優秀なものになり得た率が、約200倍も高く、また有名な人の父に、有名な人のある割合は、普通の場合に比して、120倍も濃厚である事が分かったようです。知名な人の子に、知名な人が多く出るのは、門閥や縁固等の有利な結果であるよりも、寧ろ遺伝関係が重きをなさなければならないと結論しているようです。※18
ゴールトンのダーウィンの疑問を研究しようとする最初の試みであるようです。
この書物では、統計的な分析よりむしろ記述的な分析に終始したようです。
紳士録などを駆使して家計を調査したようです。
天才とは、学問的能力だけではなく、きわめて創造的な才能であり、知性、熱意、作業能力の点で優れているものと定義したようです。
彼は人間の肉体、才能、性格を決めるのは、社会環境ではなく、遺伝形質であると主張したようです。
神父が結婚でないことなど、知的能力の優れた子孫を残せないという理由から反対したようです。※6
この著作の時および1870年代の身体的形質の遺伝の研究は、世代から世代への形質の正規分布を維持する人口の傾向を継承の概念と調査することができなかったため、疑問がのこったままになってしまったようです。※10
いろいろな分野の「天才」の家系を調べて、「天才」が遺伝する事を示すことであったようです。そのなかで、優れた人の子あるいは親は、やはり優れた人になる傾向があるけれども、その比率は世代を隔てるごとに小さくなることを示したようです。※15
このテキスト(『遺伝的天才』)は1870年代の身体的形質の遺伝に関するさらなる研究に繋がったようです。
ケトレーが誤差法則を人間の身長などの肉体的特徴に適用したのに対して、知能(脳の気質や知的能力mental capability)をも誤差法則(正規分布)に従うとしてこれに当てはめたようです。※6
また1874年、『英国の科学者たち:その性質と遺伝』(『英国科学者彼等の自然と教養』English-men of Seience Nature and Nurture)を出版。
英国の科学者の関心が「生来のもの」なのか、それとも他人の励ましによるものなのかを発見しようと王立協会の190人のフェローにアンケートをとったもの。自然対育成の問題は、解決に至らなかったようですが、当時の科学者の社会学に関する興味深いデータを提供しているようです。※10
余談ですが、その流れでゴルトンは、1873年タイムズ紙に「中国人にとってのアフリカ」というタイトルの物議をかもす手紙を書き、そこで彼は、中国人は高度な文明が可能であり、中国人は移民を奨励されるべきであると主張したようです。※10
【3章.平凡への回帰~回帰分析や相関係数の発見~】
ダーウィンの遺伝の研究を数学的に展開しようと考えた結果、植物の種の大きさが世代ごとにどう変化するか、あるいは人の身長がどのように世代ごとに変化するという実験と観察にゴルトンは行きつきました。そしてそれを分析する方法として正規分布を世代ごとの変化として捉える二項の確率を複数個設定する「クインカンクス」というパチンコ台のようなマシンを考案する事によって成し遂げようとしました。
さらにその結果をグラフにして気象学時代の高気圧線を線で結んだ経験を活かし、現在で言う所の「回帰」という概念を発見しました。ゴルトン自身はこの「回帰」が後の「回帰分析」やそれに関わる「相関係数」として後の統計学の重要な展開に繋がるとは考えていませんでしたが、そのような現代統計学に繋がる発見であったのもダーウィン的な「偶然選択」という方法が持っていた性質がその可能性を秘めていたためでもあったようです。
■➀『種の起源』の統計的可能性■
『種の起源』はニュートン物理学によって作り出されていた機械的決定論をも打破したようです。
ニュートン的世界観においては、ラプラスが述べたように、宇宙のすべての事物は、無限の過去から無限の未来に至るまで、厳密な法則に支配され、決定されているとしています。そこは、本質的に新しいものは生まれないし、新しいことは生じないようです。完全に因果法則に支配された世界では、時間的な変化はあり得ても厳密な意味の進化は起こりえないようです。
これに対して、進化論は「偶然変異」と「自然選択」の2つの原理によって進化を説明するようです。「偶然変異」は因果法則によって生じるものではなく、「自然選択」はその生物の内的論理によって起こるものではなく、それと無関係な外的な力によって引き起こされるようです。生物は「進化する」のではなく、自然選択によって「進化させられる」のであるようです。※15
この機械的決定論を打破し、「偶然性」を伴う変化によって世界が作られているという考え方が、統計学的考えであり、ダーウィン自身は想定していなかったと思いますが、おそらくそのような性質があったからこそ、統計学は初めにゴルトンなどの生物学的遺伝研究から発達したのだと思います。
マルクスは『資本論』(1867年)第一巻をダーウィンに捧げようとして断られたと言われているようです。
進化論の基本的原理の革命的性格については、ダーウィン自身も含めて、当時の人々には十分理解されなかったと思われるようです。社会の「進歩」が強く信じられた19世紀には、「進化」が「進歩」と同一視されたのも当然であったようです。
「社会ダーウィニズム」とは当時高まりつつあった労働者階級の運動や、労働者の権利や貧民の生活を守る社会政策に反対し、外に向けては帝国主義的戦争や植民地支配を支持する者であったようです。※15
■②ゴルトンの遺伝の数学的研究■
1869年『遺伝的天才』などでは記述的な分析にとどまっていたゴルトンですが、1870年代過ぎから数学的に考えるようになります。
1874年にクインカンクス(ゴルトンボードとも言われる)を発明しているようです。※10
このクインカンクスにより中心極限定理、特にサンプルサイズが十分な場合、二項分布が正規分布に近似する事を示すために用いられたようです。そこから「平凡への回帰」に繋がっていきます。(英語版wikipedia「galton broad」)
ゴールトンはケトレーに従って、同質な人間集団におけるいろいろな特性値の分布は正規分布に従うものと考えたようです。そこで、ある集団の分布が正規分布になっているか否かを見るために、その値を大きさの順に並べたときの値のグラフの形を、正規累積分布関数の逆関数の形と比べればよいとしたようです。ゴールトンは、このグラフの形を“ogive”(建築の用語、筋違骨)と呼んだようです。※15
※統計的尺度(正規スコア)statistical scale
逆に一つの同質な集団について、ある特定の順位に位置する対象の値は、このグラフから与えることができるようです。μ+xσ(xをこのグラフから)※15
←Ogive
1875年にはスイトピー(1年草)の育種実験を行っているようです。
人間の身長のアナロジーでスイトピーの直径を比較したかったが、手間がかかりすぎるので重さに代えたようです。
すべての第二世代の種子がそれぞれの親の重さの回りに散らばるのではなく、それよりも全体の平均値μに近い重さに引きよせられてちらばることであるようです。
種子はMに向かって先祖返りすることが判明したようです。ゴールトンは種子の重さは親だけではなく祖先から引き継がれ影響されるとの結論に達したようです。※6
友人の協力を得て行ったスウィートピーの種子の大きさの遺伝に関する実験であったようです。重さを均等に正規分布しているグループ(セット)をそれぞれの友人に送り、栽培してもらったようです。
子世代は➀正規分布になるようです。②子世代のグループの重さの中央値は、親の重さの中央値の一次関数になるが、その係数は1より小さいようです(これを“reversion”と呼んだようです)。③子世代のばらつきはほぼ親世代のばらつきより小さいようです。※15
1875年に論文『双子の研究』書いています。人間のあらゆる測定による研究は新しい統計方法が求められ、『遺伝的天才』のような歴史的測定法も限界を感じた結果、双子を用いて、遺伝的影響と環境の影響のどちらが強いかを研究したようです。
結果としてはゴルトンは遺伝的なものに優位を感じ、遺伝と環境の影響を分離するために人種を越えた養子縁組研究も行っているようです。※10
1877年に改良型のクインカンクス。
1874年2月より前に発明していたものの、1877年バージョンのクインカンクスには正規も正規混合も正規であることを実証するのに役に立つ新しい機能があったようです。※10
クインカンクス(quincunx)という日本のパチンコ台に似たピン台で、上部に孔が開いていてそこから球を落とすと、5の眼に並んだピンに次々にぶるかり左右均等の確率で下に落ち、底部の箱に入る台を使ったものがゴルトンの研究にあります。
結果、箱に入る球の数は正規分布(左右対称で平均を中心に左右に裾野を持つ、釣鐘や富士山のような形をしているカーブ)の形になっているため、「クインカンクス」を使って畳み込みの概念を着想したようです。※6
この畳み込みとは、2つの事象が起こりうる確率が何度もランダムに起こった際、その結果は正規分布に従うというものではないでしょうか。つまり、ランダム化は結果正規分布になるというのをクインカンクスという装置によって証明したのではないでしょうか。
1889『自然遺伝』においてこの関係を雄弁に説明してるようです(図を用いて説明してるようです)。※10
※回帰reversion(後にregressionと呼称)
子の世代の平均の全体の平均からの距離は、親の平均からの距離と同じ方向に離れるが、その子ユリの大きさは親の平均からの距離より小さくならねばならないようです。すなわち、子は平均の方へ戻る傾向があるようです。
■③『自然的遺伝』■
『自然的遺伝(Natural Inheritance)』
1889年出版。
『遺伝的天才』以後の彼の所説の「エッセンス」を集めた名著のようです。
身長、眼の色、芸術的才能、罹病関係等に就いての親子の間の類似に関して、精細な研究を遂げたようです。※18
有名なゴールトンの祖先遺伝律(遺伝的形質)Law of ancestral Inheritanceとして両親から1/2を、四人の祖父母から合わせて1/4を、8人の曾祖父母から合わせて1/8を、16人の高祖父母から合わせて1/16を享けるというようになるようです。
1=Σ1/2+1/4+1/8+1/16…
カール・ピアソンは、この原理を肯定し、且つその数的関係に、改良を加えたようです。※18
1870代の身体的形質の遺伝の研究における正規分布を維持する人口の傾向を継承の概念と調和させる理論を詳細に論じた本でもあります。※10
1889年『自然的遺伝(Natural Inheritance)』では、才能は正規分布すると主張したようです。才能は優れたほうにも劣ったほうにも同じ広がりでちらばっていると主張したようです。
「私は『遺伝的天才(1869)』などにおいて、誤差法則の適用範囲を余りに広げすぎたと批判されてきた。」
「退化(reversion)」とは第一世代は第二世代を集団全体の平均値に戻すように機能すると考えたようです。そしてこの先祖返りを命名したようです。
退化により分布全体が圧縮すされる一方で、第二世代の間でのばらつきが、つまり兄弟間や姉妹間のばらつきが分布を拡大させて、このバランスが世代間で分布を安定化させているようです。※6
この著作は、数学の誤りも多く厳密さに欠けるものであったようです。しかし、遺伝に関する単なるデータ集めから脱して、遺伝データに数量的な方法すなわち回帰分析を適用した革新的な書物となったようです。遺伝を数量的に測定可能な特性として把握したようです。※6
母親の身長に1.08を乗じて(表グラフは1886年を用いる)、それと父親の身長の平均をとり、これを中央親(mid parent)の身長とするようです。スイトピーとちがい、親は2人なので、ゴールトンの苦肉の策のようです。
そして、子どもと親の身長の相関の分布は正規分布になるようです。
それはグラフ化して、長い思索の後、ふと彼はかつて気象図の研究の際に同じ気圧の点を結んで等圧線を書いたことを思い出したようです。同じ人数の点を囲んでいくと、彼は、これが同心の楕円になっていることを実感したようです。ケンブリッジ大学の数学者のH.ディクソンの助けを借りて、これが現在知られている2次正規分布であることを導出するようです。ゴールトンは遺伝のイメージの残る退化係数をやめて回帰(regression)係数と呼んだようです(1885年)。現在、相関係数を表すrはもともと、ゴールトンのこの呼び名に由来するようです。※6
相関係数…回帰の関係性を測る数学的尺度のことのようです。
ゴルトンは相関を定式化する事で、この新しい革命的な考え方にとても近づいたようです。この新しい革命的な考え方とは、ピアソンの「実験結果とは、数値の分布として見ること」のようです。数値の分布とは、数学公式で観測された数値がある特定の値となる確率を表すようです。
つまり、とある実験に得られる数値がどうなるかは予測できないと考えるようです。われわれに言えるのは、その値になる確率であって、値の確実性ではないとも考えるようです。個々の実験結果は、予測不可能という意味ではランダムであるようです。しかし、分布の統計モデルではそのランダム性の数学的性質を表すことができると考えるようです。
科学において、観測値にランダム性がつきものでることを理解するには時間がかかったようです。不確実性は下手な計測によるもので、自然が本来持っているものではないと思われていたようです。
物理学におけるこでまでにないより精緻な測定機器の発達によって登場してきたようです。※1
「人間の特定の性質や能力について、平均値を知るだけではあまり意味がない。…ある特定の性質が、ある集団の中でどのように分布しているかを知り、その知見を誰にでもわかりやすく、かつ利用しやすいように、簡単に表現すること」を我々が求めているとも語ったようです。※13
親と子の身長の関係に子の式を表す直線を“regression line”、その勾配2/3を“regression coefficient”と呼んだようです。※15
2/3という回帰係数が色々な特性値について一律に当てはまるように記しているようです。ゴールトンは、回帰の分析のなかで2つの量の単位をそれぞれの標準偏差にすると、2つの回帰直線の荒廃が等しくなり、先のrに一致することを発見したようです。ゴールトンはこの値を“index of co-rrelation”と名づけ、2つの量の間の関係の強さを表す尺度としたようです。Co-とハイフンを入れたのは、correlationという言葉では既に別の意味で用いられていたからのようです。それはやがて「相関係数」correlation coefficientと呼ばれるようになったようです。
回帰分析と相関係数は、現在、統計解析のなかで最も広く用いられる手法となっているが、ゴールトンは最初その汎用性について全く気づいてなかったし、世の人々もそれを遺伝の研究の方法とみなしていたようです。
当時のイギリスでは、大陸における確率論の発展については、あまり知られていなかったし、ゴールトンは、数学はあまり得意でなかったので、回帰分析と宰相2情報の関係、あるいは回帰係数や相関係数と2変量(多変量)正規分布の関係などにはほとんど注目しなかったようです。
ゴールトンが遺伝データの経験的分析のなかから直観的に定式化した、「回帰」や「相関」の概念を厳密化し、その数学的性質を確立し、また汎用的な方法とすることは、その後を継いだカール・ピアソンを中心とする人々の仕事であったようです。※15
■④ケトレーとゴルトンの差異■
ゴルトンは1860年代に標準偏差を定量化する尺度を考案したようです。※10
1860年代、ゴルトンは変異性と遺伝に関する研究に着手した頃はケトレーの平均値と統計手法が広く普及していたので、ゴルトンもそれに倣っているようです。
それも含めゴルトンが人間を調査対象としたのは、
➀多くの人々が、この理論(進化論)を人間の分野に応用したいと考えていたからのようです。
②また人間なら調査がしやすかったためのようです。
ケトレーとの差異としては、正規分布を尊重するのは同様だったようですが、平均値だけを重視したケトレーとは違って、ゴルトンは分布全体に注意を払ったようです。
ケトレー(天文学者でもあった)は「正規分布」を「誤差の分布」と見なしていたようです。正規分布の最大のメリットは、平均的なモデル(最良の近似値)が表れることだったようです。
ゴルトンは、重要なのは正規分布が示す分布であって、平均値にはそれほど興味を示さなかったようです。むしろ全体を見るべきであり、極端な値のほうが、稀ではあるが、進化にとっては決定的な要因になると考えたようです。
ケトレーは統計の中に新しい普遍主義を見出そうとした。つまり、個々の変動は、平均的なモデルの周辺に散らばる意味のない変動でると考えたようです。
ゴルトンは逆に、統計は不変的概念に関係なく、各個体の特殊性を認める手段を提供してくれるもので、数が少なくても、それらの特殊性を理解する可能性を与えてくれるものと考えたのであるようです。
それにより、エルンスト・マイヤー(1904~2005)の「個体群思考(population thinking)」(種を個体の集団と見なす考え方)の確立に貢献するようです。
またゴールトン自身も、子孫は両親より平均値に近づく傾向を「平凡への退行(reversion)」と呼んだが、さらに「平均への退行」と言いかえたようです。
ケトレーは、全体の分布を表すカーブが平均値に限りなく近づくことが文明の進歩だと主張したようです。
ゴルトンは、平均値を押し上げる平均を上回る分布の増加と、平均値を下回る分布の現象に注目したようです。
ゴルトンは、身長のような単純な形質で確かめられたことは「社会的価値」のような複雑な形質にも該当するのではないかと考えたようです。※13
彼の関心はケトレーとは違い、平均自体にはなく、むしろ平均からの偏差にあったようです。
従来の誤差理論においては最良の推定値とは測定値の平均値にほかならなかったようです。そのため、誤差理論は誤差の変動自体をそれ自体として分析しようとはしなかったようです。当時の数学者の立場から見れば、誤差は誤差であり、分析の邪魔者でこそあれ、分析対象とは見なかったようです。
反対に彼の優生学の立場からすれば、変動(確率誤差)は本質的に重要な分析対象であり、ばらつきを無視することは到底考えられなかったようです。
こうしたことから、「標準偏差」が「確率誤差」にとって代わり、「正規分布」が「誤差法則」にとって代わって使われただしたようです。
また親と子の身長の関係といった独立でない2変数の取り扱いが重要であったようです。誤差理論が相互に独立した2変数の関係に終わっていたのに対して、彼らは相互に連関する独立でない2変数の関係に手を広げていたようです。※6
【4章.個人差と個体研究の心理学への登場】
夏目漱石が影響を多く受けたアメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズがアメリカにおける心理学の始まりとも言える人ですが、一方で『サイエンス』誌の編集長などもしてアメリカの心理学の普及に務めたキャッテルはウィリアム・ジェームズの心霊現象の研究に関しては「心理学を傷付ける」と批判しています。キャッテルは特に心理学の個人差や個性の研究という分野を科学的なものとして確立させた功績があります。
キャッテルはドイツのヴントの元でも学んでいますが、イギリスでフランシス・ゴルトンのもとで学んだ影響を強く受けてると言います。ゴルトンは「平凡への回帰」という概念などの遺伝の研究を科学的な測定という技術で成し遂げていて、それをシステム化した努力がキャッテルの学びに繋がったのでしょう。
■➀心理学の個人差と個性の研究の開拓■
ダーウィンが、種の進化という事実を説明するのに、“個体差”の存在に注目したことは良く知られているようです。ダーウィンは個体差の変異が自然環境の中で適応や生存の選択を受け(自然選択説)、個体差から変種、変種から種の形成が行われるという進化論を唱えたようです。この進化論は、種の形成の源を個体差に求めるという意味で、個体差の存在意義を強調することになったようです。※17
そしてゴールトンは、従兄弟のダーウィンの『種の起源』(1859)に深い影響を受け、人間における遺伝的特性と個人差について先駆的な研究を行ったようです。特に1870年代以降にはパーセンタイル法や相関法による親子間の身体的特徴の遺伝や個体内相関の研究、自ら創案した数々の心的能力の検査(mental test)による個人差の研究、双生児法による生得的本性(nature)と養育的影響(nuture)の比較研究を行ったようです。
彼の研究の集大成ともいえる『人間能力とその発達の研究』(1883)は、自ら創案した数々の精神機能の実験や検査によるまさに個人差の心理学であったようです。それは、ダーウィンの自然選択理論の基本概念である個体変異の考えを基礎にしているようです。
彼は、容貌や身体的性質、精力などの身体的能力をはじめ、感受性やビネ―の検査にも取り入れられた鍾りの弁別などの感覚的能力、心像や数型、連想、幻視などの観念内容についての独創的な検査を、多民族を含む多くの人に実施し、統計的に分析して個人差や民族差を論じたようです。心像や連想の研究から出た視覚型、聴覚型、運動型のような類型は、その後ビネ―などに引き継がれ、教育心理学的問題として注目されたようです。※13
■②『人間の才能とその発達の研究』■
1883年『人間の才能とその発達の研究』(Inquiries into Human Faculty and its Development、『人類才能の調査及び其の発達』)を執筆しています。
この本はさまざまな心理的現象とその後の測定をカバーしているようです。また、優生学という用語(アイディア自体は前からゴルトンの中にあった)を作り出した著作でもあるようです。
➀犬笛
犬笛はこの著作に載っていて、フランシス・ゴルトンが発見したため、「ゴルトン・ホイッスル」とも言われているようです。ゴルトンは、この著作で動物でその周波数を用いたテストを行っているようです。(英語版Wikipedia「Galton’s Whistle」より)
②優生学
「より環境に適した人種や血統を優先して、より多くの機会を与える」という考えに基づいて書いています。
知性という見も触れもしない抽象的な概念の測定は、近代以降の心理学や統計学の進歩によってはじめて可能になるようで、まだゴールトンの時代にはなかったため身長を使った測定を行ったようです。※3
この著作で彼の優生学(eugenics)の提唱は頂点に達したようです。
農夫や園芸家は慎重に選択すれば、品種改良を繰り返して特別に好ましい家畜や作物を育てられることをしっていたようです。
彼は知的なエリートこそが社会全体を指導する事を当然としたようです。この考えは、当時の支配層である富裕層の権威に抵触するものだったようです。「才能」や「気質」という人間の能力の存在は認めたが、「魂」といった超自然的な存在を否定したようです。キリスト教に対して、パスツールと同じく、公の席では自分の思想を表明しなかったようです。
彼の優生学への熱意の裏には、当時の支配階級であった聖職者への反発があったことは否定できないようです。科学的自然主義と呼ぶべき運動は、それまで大金持ちの家庭教師くらいしか食いぶちのなかった知的エリートの科学者が、自らをプロの専門職業として社会に認知させようとする運動であったようです。※6
彼は本書の序文の中で、「一国民の道徳的ならびに知的資源は、その成員に備わっている本性(nature)の莫大な変異に依存することが大である。したがって、国民全部を一つの共通型に同化しようとする企ては、改善とはおよそ正反対である」といっているようです。ところが一方、「とはいえ、大いに改良の余地が存するということはまちがいない」ともいって、人種改良を目指す優生学を提唱するのであるようです。※13
③統計的考え方
この著作においてゴルトンの統計学は優生学を樹立するためにぜひとも必要であったようです。※6
■③人体測定■
さらに、この本を執筆後に人体のデータを更に積極的に集めるシステムを作ります。
1884年に、国際健康博覧会(The International Health Exhibition)がロンドンで開催される際、この近くに人体測定研究所を設立して多くの人体のデータを集めました。
国際健康博覧会は、衛生と公衆衛生におけるビクトリア朝の発展を強調することに重点を置き、当時の他の国と比較して、国の先進的な公衆衛生の取り組みを展示することができたようです。日本も出展していて豆腐製品を出しているようです。
この機会を利用して、ゴールトンは人体測定実験室(Anthropometric Laboratory)を設立しました。この実験室の目的は「人間の主な身体的特徴を測定し、記録すための器具と方法の単純さを一般の人々に示すこと」にあると述べ、利用者は入場料を支払った後、機能的な流れ作業の中で身長、体重、視力など身体的特徴が測定されたようです。個人と家族の情報をフォームに記入し、髪や目の色を記録したり、肌の鋭さ、色覚、奥行きの知覚、視力、聴覚の鋭敏さや最高可聴音を調べ、触覚、呼吸能力やパンチ力や両手で引っ張る力握る力なども調べ、最後に座高と身長を調べたようです。
この実験室は、革新的な測定技術を採用してなかったようですが、限られたスペースを活用してスムーズにさらに多岐に渡って測定できたというところが特徴だったようです。ゴールトンにとっては人体測定のデータ収集が目的でしたが、利用者にとっては身体的特徴を測定することは、より家庭的なレベルで、子供たちが適切に発展していることを確認するのに役に立つとゴールトンは述べているようです(このような部分から親子の利用者が多かったのではないでしょうか)。
国際健康博覧会終了後、ゴールトンはこれらのデータを使用して、スイートピーを研究した後に提起された線形回帰の理論を人間で確認したようです。この人間のデータの蓄積により、彼は前腕の長さと高さ、頭の幅と頭の幅、頭の長さと高さの相関関係を観察する事ができたようです。※10
1888年にもサウスケンジントン博物館のサイエンスギャラリーに研究所を設立して、参加者は少額の料金を払い測定により自分の長所と短所に関する知識を得ることができるシステムを取って、データ収集を継続していたようです。※10
『主に人体測定データから、相互関係とその測定値』(1888年)
国際博覧会のデータ収集からの考察。この出版物で、ゴルトンはこのような相関関係を「一つの[変数]の変動が、平均して多かれ少なかれ他方の変動を伴い、同じ方向にある」ときに発生する現象として定義したようです。※10
この文献かは分かりませんが、ゴルトンは身長と肘長(ひじから中指までの長さ)のあいだには0.80という関係があると計算したようです。※19
前腕と身長の測定値を調べた後、ゴールトンは独自に相関の概念を再発見(1846年のオーギュスト・ブラヴェ以来)し、遺伝、人類学、および心理学の研究におけるその応用を実証したようです。回帰直線の使用と、相関係数を表すrの用語を発明したようです。※10
■⑤キャッテルへの影響■
ゴールトンの個体差と個性の研究をアメリカに持っていって本格的に心理学への貢献とした人物としてジェームズ・マックイーン・キャッテルがいます。
1879年ライプツィヒ大学で初の実験心理学の研究所を設立する事で近代心理学のはじまりとされるヴントのもとで、1883年頃からアシスタントとして働いていたジェームズ・マックイーン・キャッテル(James Mckeen Cattell 1860-1944)がゴールトンの研究所に働くことを望み、測定などからの研究に参加したようです。(英語版ウィキペディア「James Mckeen Cattell」)
キャッテルもゴルトンの影響を受けてか、優生学の影響を受け、さらにはダーウィンの進化論によって「個人の差異の心理学」を研究する動機づけになったようです。
19世紀当時、新大陸アメリカでの心理学は、アメリカ心理学の祖ウィリアム・ジェームズが、ドイツのヴィルヘルム・ヴントが開始した実験心理学を導入し、その上で心の帰納的意味を強調するところから発展したようです。当時のアメリカの学生の多数がヴントの下で学び、帰米して、各地方に実験場を開設したようです。それで表面上はキャッテルはドイツ的であったようですが、内容はヴントよりむしろフランシス・ゴールトンに近いものであったようです。キャッテルは、そんなアメリカ心理学の指導者の一人で、個人差の研究に貢献した人物だったようです、彼の研究には反応時間の研究、連想時間の測定、読書時間、誤差の法則、メンタルテスト(感覚、反応時間、人間の記憶力のスパン、移動速度の測定を含む一連のテストで、これにより知能が測定できていると信じていたようです)などがあり、クラーク・ハル、エドワード・ソーダイク、ジョン・B・ワトソンなどにも影響を与えたようです。※wikipedia『キャッテル』
更には、1862~1896年のハーバート・スペンサーの『総合体系シリーズ』を援助したエドワード・L・ユーマンズによって発刊された『POPULAR SCIENCE』誌(初期の号はチャールズ・ダーウィン、ハクスリー、パスツール、ウィリアム・ジェームズ、トーマス・エジソン、ジョン・デューイの著作とアイディアの発信源)を1900年に『サイエンス』誌などと共に買取り編集者なっています。※英語版wikipedia『POPULAR SCIENCE』
これによってマイナーな研究や骨相学のような疑似科学として捉えられていた個人差と個性の研究を含む心理学を学術として研究の価値がある、正当な科学としての地位を確立させたようです。
またキャッテルはウィリアム・ジェームズの超心理学の研究を支持していることに意義を唱えたようです。『サイエンス』誌上でジェームズとパイパーをめぐる論争に巻き込まれたようです。ジェームズへの手紙の中で、「心霊現象研究会は、心理学を傷つける多くのことをしている」と書いているようです。
他には、娘のサイキ・キャッテルは父の後を継ぎ、児童心理学の実践を確立し、幼児の知能を評価するためのテストを開発したようです。※wikipedia『キャッテル』
【追加資料・生涯】
1822年、バーミンガム時代(1780-91:ファヴォアジエとフロギストン説で論争していた時代)のプリーストリーのかつての家「フェアヒル」の敷地に建てられた家で生まれてたようです。またバーミンガムの大富豪の銀行の家に生まれたようです。母方の祖父がエラズマス・ダーウィンのため、ダーウィンの従兄弟にあたります。※6
英国Warwic kshire のDujjestoneの富有なる一銀行家の息子として生まれる。※18
幼少期から1836年までバーミンガムのキング・エドワード・スクールに通っていました。
1836年からキングス・カレッジ・ロンドン・メディカル・スクールに通ったようです。
そして1838年両親の圧力もあり、薬学専門のバーミンガム総合病院に入ったようです。
1840-1844年、ケンブリッジ大学トリニティカレッジで医学を学んだようです。そして、ロンドン・セントジョージ病院で研究していたようです。※6
1844年に父が亡くなり、莫大な財産を相続したようです。そこから一転して財産を自分自身の偉業を作るために活動を始めます。※6
最後の財産のあるアマチュア科学者(gentleman scientist)の一人として生涯を過ごしたようです。※13
「南アフリカ冒険」
1860年(?)『休暇の旅』スペインの北部の遊覧書いたようです。※18
「気象学」
「優生学」
「統計学」
1877年ロンドンの王立研究所にて『典型的な遺伝法則』Typical Laws of Heredityという講義を行ったようです。この講義で、人口を維持するための反作用の力がなければならないと主張したようです。しかし、このモデルは通常よりはるかに大きな規模の世代間の自然淘汰がなければ成り立たないものでもあったようです。※10
1877年、イギリス科学振興協会のゴルトンを含む何人かの会員が、統計を担当する部署(Fセクション)を廃止しようと提案したようです。
数字を並べた図表を作れば十分であると考えていたため、科学的貢献が少ないというのがその理由のようです。同様にゴルトンはロンドン統計協会も同じように存在価値がないと見なしていたようです。それは1880年代半ばから変化していくようです。※13
「心理学への貢献」
1884年「われわれは疑いもなく身長にかんする分布は毎年変わらないことを知っている」といったようです。※6
『伝記記念帖』Lifehistory Album
『家系的才能の記録』Record of Family Faculties
合成写真(合成ポートレート)
【『三匹の子豚』の普及と合成写真の登場】は1883年から1885年。
1885年英国学術協会人種学部会長講演にて「進化の過程は2つの相反する行動から成り立っている。一方は収束する動きであり、他方は拡張する動きである。これらは相互に牽制して安定的均衡(stable equilibrium)に達する」。
第一世代と第二世代はけっきょく同じ正規分布に安定的に従うと考えるようです。第二世代のそれぞれの小さな正規分布を畳み込めば、全体として大きな正規分布、つまり元の分布に逆戻りすると考えているようです。※6
1885年9月の英国科学振興協会(British Association for the Advanvement of Science)の会議で、セクションH:人類学の会長を務めていたため代表演説で「平凡への回帰」を述べているようです。ここにおいて1870代の身体的形質の遺伝の研究における正規分布を維持する人口の傾向を継承の概念と調和させる案の登場となったようです。スイートピーの調査も含む演説をしているようです。※10
1885年5月10日、ロンドン人類学会会合発表においてフレイザーが「魂に関する未開理念を例証する埋葬習慣について」を発表。その際ゴールトンが司会をし、スペンサーも出席し、タイラー.E. Bも出席しているようです。
また1886のJornal of the Anthropological Institute Vol.15において親子の測定データをまとめたグラフと楕円を描き入れたグラフを形成していたりします。
ロンドンに生物測定(biometrical)のための研究所を作ったようです。※1
1892年『指紋(Finger Print)』を出版し、指紋分類の基礎となるそうです。
『ネイチャア誌』のハーシェルのノートから着想しているようです。※6また来日していた医療宣教師ヘンリー・フォールズ(1877年来日のモースとも友人)も貝塚で着想したもので、フォールズはダーウィンと友人で会ったためダーウィンに相談し、数学の苦手なダーウィンはゴールトンに託してゴールトンがこの研究をすすめたようです。
1888年の王立研究所の論文と三冊の本(1892、1893、1895)で、二人の人物が同じ指紋をもつ確率を推定したようです。指紋の遺伝率と人種差を研究したようです。
スコットランドヤードにおいてもこのころ指紋を使った捜査が始められ、翌年ネイチャーに寄稿し始めていた南方熊楠も東洋では指紋を使った『拇印考』(1894年)を書いています。
1894『The Part of Religion in Human Evolution』
「遺伝に基づく能力を最高のレベルまで高めたいという情熱は人間の進化を追求するために必要条件であり、また、ジョン・スチュアート・ミルが言うような「国民的宗教」を確立するための十分条件であるようです。なぜなら、そのような情熱は、『人間の感情と願望をどんな利己的な目的よりも優れた理想的な目的へ導く』ために役立つからだ」(※ミルにとって、めざした宗教とはオーギュスト・コントが着想したような人類の宗教だったようです。)
「今後は、人類の質そのものを改良する必要がある。現在の平均的市民のレベルでは近代社会が求める日々の仕事を果たせないからだ」
「国民の持って生まれた性質を改良することはできないことではない。その結果、今の時点では実現できなそうもない夢のようなプロジェクトも、今後は充分実現可能になるだろう」
また上流階級より下流階級の出生率が高いのは、優生学に反する「遺伝的な退化」ともいっているようです。
さらにはチャールズ・ブース(1840~1916)が定義したロンドンの人口調査に基づく8つの「社会階層」を使用しているようです。
※13
1901年、王立人類学研究所で2回目のハクスリー講演を行う際に、優生学の問題に取り組むことを選択したようです。※10
『現在の法律および感情の下に於て可能なる人間種性の改善』と題して、人類学会に於いて講演したようです。※18
1902年、『バイオメトリカ誌』を設立、自分の財産を費やし、この新雑誌の援助財団を設立したようです。※1
1904年、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンにゴルトン研究室を設立したようです。
『優生学其の定義・範囲及び目的』題する講演を社会学会に於いてなしたようです。
➀確実に知られたる遺伝法則の知識を普及すると共に、将来進んでそれに関する研究を促進すること。
②古代及び現代国民に於ける種々なる社会階級(公民生活の必要度を標準として分類する)の生産率に関する調査。などを話したようです。※18
1906年 ネイチャー誌への手紙の中で、放射状の切り込みを避けることで丸いケーキを切るより良い方法を提案したようです。※10
1907年にはゴルトンの遺産から優生学と統計学の教授職が設立され、初代教授としてカール・ピアソンが就任したようです。(Wikipedia「ゴルトン」)
更にロンドン大学に向て「優良なる人間の標準」を決定すべき為の研究基金を寄付したようです。これが上記の教授職に繋がるようです。※18
また、「優生学教育協会」もゴルトンにより設立されていて死後はダーウィンの息子レオナルド・ダーウィンが主宰しているようです。
1909年、優生学教育協会の機関誌である優生学評論の発行が開始されたようです。同協会の名誉会長であるゴルトンは第一巻の序文を書いたようです。※10
1910年、『Kantsaywehere』というタイトルの小説に取り組んだようです。より健康で賢い人間を育てるように設計された、優生学の信念で構成されたユートピアを描写しているようです。※10
1914年、わずかでも優秀な個体を増やし、僅かでも劣った個体を減らす過程を継続していけば、集団全体のレベルは上がり、天才が生まれ出る確率は高まるといったようです(『遺伝的天才』第二エディションより)。※6
【参考文献】
※1…『統計学を拓いた異才たち』デイヴィッド・ザルツブルグ(訳)竹内恵子・熊谷悦生2006.3.20日本経済新聞出版社
※2…https://www.washingtonpost.com/archive/local/1994/06/30/statistician-churchill-eisenhart/
※3…『統計学が最強の学問である』西内啓・2013.1.24ダイヤモンド社
※4…『民族学の歴史』ジャン・ポワリエ(訳)古野清人、1970.5.2白水社
※5…『数学の文化史』モリス・クライン(訳)中山茂2011.4.20河出書房新社
※6・・『知の統計学②』福井幸男1997.6.30共立出版株式会社
※7…Wikipedia「リヴィングストン」
※8…ir.soken.ac.jp 8章『欧米における優生学とその影響』飯田香穂里
※9…日本語版Wikipedia「ゴルトン」
※10…英語版Wikipedia「galton」
※11…http://spacesite.biz/weathstoy.htm
※12…https://www.kodomo.go.jp/ingram/section2/index.html
※13…『統計の歴史』オリヴィエ・レイ(訳)池畑奈央子ら、原書房、2020.3.26
※15…『歴史と統計学』竹内啓2018.7.25日本経済新聞出版社
※17…『心理学史への招待』梅本堯夫・大山正
※18…『サー、フランシス、ゴールトンの伝記』永井潜、1931.1巻1号『民族衛生』創刊号
※19…『心理学史 はじめの一歩』高砂美樹、2011.9.25アルテ
※20…『生物学の歴史(下)』八杉龍一、日本放送出版協会、1984.12.20